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殿ヶ谷戸庭園(紅葉と歴史に触れて) [たえの日記]

24日の日は、JR国分寺駅から徒歩2~3分程の所にある、都立殿ヶ谷戸庭園に行ってきました。
自宅からは、そう遠いわけでもなかったのですが、一度も行ってみたことがなく、
以前からブロガーさんの記事では何度か見ていたので、一度は行ってみたいと思っていたのです。

都立文化財9庭園のうちの一つ、殿ヶ谷戸庭園

庭園の名称は、昔この地が国分寺村殿ヶ谷戸という地名であったことに由来
そしてここは、元は三菱合資会社の取締役であった岩崎彦弥太が、国分寺の家として
親しんでいた場所だそうです
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綺麗に色づいた木々
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まだ見頃とまではいかない感じでしたが、逆にグラデーションを楽しむ事が出来ました
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萩のトンネル
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竹藪には静寂を感じます
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コモ巻き
虫を駆除するための仕掛けだそうです
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鹿(しし)おどし
すぐに音はならなかったものの
待っていたその音はとても風情がありました
ししおどしとは本来、鹿や猪を追い払うために作られたもので
場所によっては猪おどしと表記されていることもあるそうです
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紅葉亭
数寄屋造りの茶屋
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紅葉亭からの眺め
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山上憶良が詠んだ歌のようです
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本館
彦弥太の別邸として昭和9年に建てられた洋館
中は三菱財閥などに関する掲示物の展示室になっていました
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雪吊り
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”鮮やかなイチョウの下でちょっと一休み”
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ふと足が止まった木々や花々です
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園内はそれほど広くはありませんでしたが、紅葉を楽しみながら程良くゆったりと歩くことが出来ました。
今回私は馬頭観音こそ見損なってしまったものの、園内をほぼ廻って40分程、
歴史をも感じながらとても気持ちの良い散策をすることが出来ました。



12月10日(日)まで都立庭園の紅葉を巡るスタンプラリーも開催中
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参考
岩崎彦弥太(いわさきひこやた)
(旧岩崎邸を本邸としていた三菱財閥三代目総帥岩崎久彌の長男)
以前旧岩崎邸に行った時の記事

http://tae-diary.blog.so-net.ne.jp/2017-06-30




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上野で美術鑑賞(ゴッホ展) [たえの日記]

17日の日は東京上野へ行ってきました。
昼食で向かったのは老舗のお蕎麦屋さん”上野藪そば”
アメ横の中を通り、ようやく着いた先、角地にこじんまりとしたお店。
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店内は若干狭いながらも2Fまであり、通されたのは2階の奥の席だったので、
割とそこはゆったりと食べることが出来ました。
私が注文したのはかき南ばん。
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お値段1619円+税と、ちょっぴりお高めでしたが、
牡蠣は今までに食べたこともないような大きいのが3個。
焼き牡蠣ながら中は少し半生状態でしたがとても実がふっくら。
つゆの味は若干濃めでしたが、お蕎麦は喉越しが良く、とても美味しく頂くことが出来ました。

お腹を満たした後は今日の本題、まずはゴッホ展です。
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今回のテーマは巡りゆく日本の夢。
今回の展覧会は大きく分けて第二部構成。第一部では日本の美術様式を取り入れた芸術運動である
ジャポニスムとゴッホの作品の紹介、第二部ではゴッホ亡き後、今度は日本人がゴッホを称賛し、
理想化するようになった日本人のファンゴッホ巡礼と題し、
その足跡を辿った日本の画家や文学者たちの著名が記されている芳名録と
著名が残る日本人の作品や関連資料が合わせて紹介されています。

第一部
<ゴッホとジャポニスム>
(1 パリ 浮世絵との出会い)
まずはパンフレットの表紙にもなった渓斉英泉(けいさいえいせん)の絵をもとにして
ゴッホが描いた”花魁”が飾られていました。
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様々な刺激を受けながら模索表現をしていたゴッホですが、その中でもゴッホは日本の浮世絵に大きな影響を受けたようです。ゴッホは浮世絵版画を模写し、油彩画を描くなどして日本独自のイメージを作り出しました。

(2 アルル 日本の夢)
ゴッホは特にジャポニズムの影響を置く受けた画家。
貧しい生活の中でも500点に及ぶ浮世絵のコレクションをするほどで
浮世絵と接することでさらに革新的な独自の絵画をも生み出すようになったようです。
今回の展示では、歌川広重や葛飾北斎の作品も数多くありました。
中でも大きく影響を受けたと言われる作品は葛飾北斎の”富嶽三十六景 神奈川沖浪裏”で、
今回出品は残念ながらありませんでしたが”星月夜”や”糸杉”などはその大波のタッチが
良く表れた作品だそうです。

(3 深まるジャポニスム)
日本の地に大いなる夢を抱いていたゴッホ・・
1888年2月には「フランスにおける日本」にあたる南仏へと旅立ち、
その地で、ゴーガンとの共同生活を始めました。
その期間はわずか一年程でしたが、彼にとっては最も想像力に満ち、
もっと幸福な時期だったようです。
そんな気持ちが表れているかのように、この頃の作品は黄色や青・赤や緑など、
対象的な色で描く、鮮やかで印象強いものでした。

寝室(1888年)
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タランスコンの乗合馬車(1888年)
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(4 自然の中へ 遠ざかる夢)
しかしながらその幸福な期間は長くは続かず、
1888年12月、耳切り事件を起こしたのちはゴーギャンとの生活は崩壊、
その時に襲ってきた精神的な発作により、その後もゴッホは発作に襲われるようになってしまいます。
そしてその後日本も、急速に国家と現実に取り込まれ、もはや楽園ではなりつつあり、
次第にゴッホも日本の夢から覚めていったようです。

蝶とけし(1889年)
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下草とキヅタのある木の幹(1889年)
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ポプラ林の中の二人(1890年)
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この絵の二人の姿はははっきりとしておらず、バックの景色も暗く覆われています・・。
消えかかる人影・・・暗い闇・・・
この絵はゴッホのその当時の気持ちの表れだったようにも受け取れるような気がします。
この後ゴッホは37歳という若さで自害してこの世を去りました。


第二部
<日本人のファンゴッホ巡礼>
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ゴッホ亡き後、その作品や生涯を熱心に紹介したのは小説家の武者小路実篤を始めとした
文学者や美術家たちだったようです。
彼らたちは、ゴッホの生の軌軸を求めてオーヴェールへと赴くことになります。
そして徐々に、絵画だけではなく、伝説・神話化されていくゴッホの生涯を追い求め、
その後も多くの日本人がその地を訪れたようです。
芳名録はその際に訪れた日本人が署名をしたものであり、全三冊、
それが今回、日本では初公開の展示になっていました。

その他ゴッホに影響をうけた画家の展示

前田寛治(1923年)
ゴッホの墓
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佐伯祐三
オーヴェルの教会(1924年)
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とりわけ文学者たちは挫折・失恋・失敗などを繰り返した
ゴッホの悲劇的な生涯への関心が高かったようです。
なので今回は文学者の書籍の展示もされていました。

黒田重太郎”ワン・ゴオグ”
斉藤茂吉”ゴオホ 塀に囲まれた青野”
武場隆三郎”ファン・ホッホの生涯と精神病”など



今回の展覧会では、いかにゴッホが日本の絵画(浮世絵)に影響を受けていたのか、
そしてまた、日本人がゴッホの絵画や生涯に深く心を動かされていたのか、
そしてゴッホの悲しいながらの生涯の中、絵にかけ続けた想いを
大きく知ることができた気がしました。

できるだけ空いている時間を狙いたかったため、午後から出かけたので
ゴッホ鑑賞が終わった後は、外はだいぶ日も暮れかけていましたが、
その後は自然と流れるように国立西洋美術館で開催されている
”北斎とジャポニズム展”に向かいました。
画像 yahooサイトから引用
文 ゴッホ展”巡りゆく日本の夢”から一部引用


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ゴッホ展 上野・東京都美術館にて2018年1月8日まで開催









誰も知らないゴッホの真実が書かれた
話題の一冊










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秋の味覚(かりん) [たえの日記]

かりんを頂きましたのでかりん酒とかりんシロップを作ってみることにしました。
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切るのがとってもかたいかりんです。中身はこんな感じ。
ちょっと種の所が汚れていたので切り落としました。
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かりん(400g)と氷砂糖(60g)、ホワイトリカー(600ml)を入れて作ったかりん酒
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かりん(400g)とはちみつ(600g)を入れて作ったシロップ
(ちょっと身が浮いていますが大丈夫でしょうか…)
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かりんはとても喉に効果があるとのことです。
度々喉が痛くなる私にとっては重宝しそうです。

おおよそ飲み頃は2か月後位かららしいので、
その頃が楽しみです[わーい(嬉しい顔)]





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青梅街道のなりたち [たえの日記]

とある本当の昔話・・。

それは、はるかはるか昔、慶長18年(1606年)のこと、
約60頭の馬がその背に二俵の荷を乗せ、人夫に引かれた一団は
青梅の上成木と北小曽木村より江戸に向かったそうです。
その俵は一俵80キロと相当に重く、樹木のような太い萱の根元を踏み分けながらの
約十一里の難儀な道中・・
幕府に徴用された「御用石灰(いしばい)」の一群であったそうです。
その石灰輸送の道としてできたのが成木往還、のちの青梅街道であり、
石灰衰退後もさらに街道は、多摩地域の開発と資源の確保のため
大きな役割を果たしたそうです。

青梅街道は内藤新宿の西のはずれ追分(伊勢丹付近)で甲州街道から分岐し、
ひたすら武蔵野台地を西方へ横断。中野、田無、箱根ヶ崎、などを通り、
青梅宿に向かう脇街道です。

参考文書↓


ということで、ここの所青梅街道の歴史にちょっぴり興味を持った私は、
(本当は西のはずれ追分から歩けば良いのでしょうが
とてもとてもその長い道中は歩けそうにないので)
その一部、身近に行ける中の青梅新町界隈を
当時の歴史を感じながら?ちょっぴり散策してみました。

まずは新町の桜株交差点に立つ馬頭観音塔と夷申塔
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文字は見えにくかったですが、「左ハ川越道」「右ハ江戸道」と刻まれていました

そして御嶽神社
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大井戸公園
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この地に新田を開発し、集落を作った吉野織部之助によって掘られた井戸
近年までこの大井戸は新町開村の象徴として伝えられてきたそうです

旧吉野家
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慶長16年、吉野織部之助によって新町村は誕生
この吉野家は新町村の名主を代々勤めた
今でも旧吉野家は多摩地方を代表する建築物だそうです
この日、実際に薪も焚かれて、さらに趣がありました

鈴法寺跡
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全国に二か寺しかない普化宗括総派総本山の寺で大いに栄えた
江戸時代前期には幕府の庇護を受けたが、その後浪人の隠れ場ともなったため、
幕末には幕府もしばしば干渉するようになり、その後廃寺となったそうです

今ではとても交通量の多い青梅街道、この地を馬を引きながら人夫が通っていたなどとは
想像するのも難しいことだったのですが、、実際に建築物などを見ながら歩いて見ると、
ふと当時の村民たちの暮らしぶりが伺えるような気がしました。
御用石灰が掘られたという成木はここから車でさらに山間を40分ほど行った場所にあります。
廃墟になったトンネルなどもあり、ちょっぴり私が行くには勇気が入りそうな場所ですが、
成木では更なる歴史を感じることが出来そうなので、出来たらそのうち足を運んでみたいと思います。





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