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青梅街道のなりたち [たえの日記]

とある本当の昔話・・。

それは、はるかはるか昔、慶長18年(1606年)のこと、
約60頭の馬がその背に二俵の荷を乗せ、人夫に引かれた一団は
青梅の上成木と北小曽木村より江戸に向かったそうです。
その俵は一俵80キロと相当に重く、樹木のような太い萱の根元を踏み分けながらの
約十一里の難儀な道中・・
幕府に徴用された「御用石灰(いしばい)」の一群であったそうです。
その石灰輸送の道としてできたのが成木往還、のちの青梅街道であり、
石灰衰退後もさらに街道は、多摩地域の開発と資源の確保のため
大きな役割を果たしたそうです。

青梅街道は内藤新宿の西のはずれ追分(伊勢丹付近)で甲州街道から分岐し、
ひたすら武蔵野台地を西方へ横断。中野、田無、箱根ヶ崎、などを通り、
青梅宿に向かう脇街道です。

参考文書↓


ということで、ここの所青梅街道の歴史にちょっぴり興味を持った私は、
(本当は西のはずれ追分から歩けば良いのでしょうが
とてもとてもその長い道中は歩けそうにないので)
その一部、身近に行ける中の青梅新町界隈を
当時の歴史を感じながら?ちょっぴり散策してみました。

まずは新町の桜株交差点に立つ馬頭観音塔と夷申塔
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文字は見えにくかったですが、「左ハ川越道」「右ハ江戸道」と刻まれていました

そして御嶽神社
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大井戸公園
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この地に新田を開発し、集落を作った吉野織部之助によって掘られた井戸
近年までこの大井戸は新町開村の象徴として伝えられてきたそうです

旧吉野家
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慶長16年、吉野織部之助によって新町村は誕生
この吉野家は新町村の名主を代々勤めた
今でも旧吉野家は多摩地方を代表する建築物だそうです
この日、実際に薪も焚かれて、さらに趣がありました

鈴法寺跡
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全国に二か寺しかない普化宗括総派総本山の寺で大いに栄えた
江戸時代前期には幕府の庇護を受けたが、その後浪人の隠れ場ともなったため、
幕末には幕府もしばしば干渉するようになり、その後廃寺となったそうです

今ではとても交通量の多い青梅街道、この地を馬を引きながら人夫が通っていたなどとは
想像するのも難しいことだったのですが、、実際に建築物などを見ながら歩いて見ると、
ふと当時の村民たちの暮らしぶりが伺えるような気がしました。
御用石灰が掘られたという成木はここから車でさらに山間を40分ほど行った場所にあります。
廃墟になったトンネルなどもあり、ちょっぴり私が行くには勇気が入りそうな場所ですが、
成木では更なる歴史を感じることが出来そうなので、出来たらそのうち足を運んでみたいと思います。





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